本とブログ

悲しいほど個人的な読書をしていない夏休み。
もろもろ研究関連の書を読みながら書くという義務でもたついているからだけれども。
最近通して読んだのなんて『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』と、ごく短い短編と、新書ぐらい。
ああそれから、雑誌を捨てて整理するのにもったいないからつい読んだ女性作家の小説。
ワセ女としての自意識に押しつぶされた30女が、芦屋に短期移住して別階級(谷崎の世界)を知るというもの。
ワセ女のプライドなんて、もうほんとにどうでもいい話。
合コンに行き、ついフェリス出身ですと嘘をつきながら、実際フェリスなんて入っても居場所ないだろうなと思うところなど、個人的に真剣に怒りを感じた。
何が悲しくて、貴重な時間にこんなものを読んでしまったんだか。
この夏は何人かいる親のうち二人が死ぬ恐れがあったので、手伝いや留守番やその合間のヘアパックをしながら読んだ伊藤比呂美はとてもよかった。
しかしこういう間にも、日々人のブログなどは読んでいるのだよな。
ひょんなことから、一昔前、メールや手紙を頻繁に送ってきた人が書いているサイトを知り、膨大な文章に触れる。
相変わらずの才気誇示ぶり、変わってない(笑)。
それで思ったのだが、あのメールや手紙はコミュニケーションの手段だったのではなく、こちらがある期間、表現行為の受け手(読者)に選ばれていたということなのだろう。
今はブログというものがあってよかったね。
いや私も含め、そういう欲望はみんな本当に強くて、だから今ブログがこんなにも盛んになっているのだと思う。
でもそれはコミュニケーションそのものとはまた別の発露だと私は思っているけれど。
その辺が中途半端なミクシィってものは、まったくもって苦手だ。
それにしても、人々が本やブログで文章を書きながら目指すところというのを何となく受け取りながら思うことだけれど、知に関してでも生活上のことでも、洗練の方向というのは私はだめだな。
階級的な限界、ということかもしれないけど、面白いと思えないし、感動することがない。
もっとも強い感情などというものは、クラス意識の高い世界では鼻白むことなのだろう。