エコダ・ツーリズム、孤独の迷宮

昼には先生友達とトンカツ、それから他の先生も交えてアルプス風の喫茶店でお茶、夕には学生たちとケーキ。
去年も口々に同じことを言われてこっちがびっくりしたのだが、3年生、4年生にもなって「こんなこと入学以来初めて」「びっくり」なんだそうだ。
つまり先生とお茶したりすること。
私なんか場所が変われば今だって、歳も変わらぬ先生方に奢られたりするっていうのに。
現役女子大生の頃だって、そんなことはよくあった。
小さい大学だからより関係は親密なのかと思えば、むしろ逆らしい。
ゼミでさえも、飲み会とかないらしい。
こういう場で得る情報とか、学生同士の関係の始まりとか大事なのに、何だか彼らは大きな損をしている気がする。
彼らだって機会があれば、とても楽しく有用な会話ができるのだから。
別の場で周りにいる院生たちが学部生の頃からふんだんに手にしている、授業外での情報量や年長者からの恩恵を考えると、どうにかならないものかと思ってしまう。
大学という場は本来レベルと関係なくいろいろなものを与えてくれるはずだけれど、有利な場にいる者はますます恵まれ、そうじゃない場ではその逆というのはいたたまれない。
そういうことって、その後の人生の資本になっていくわけだから。

オクタビオ・パスの『孤独の迷宮』が復刊されて、ちょうど「マリンチェの子」のところを読まなきゃいけない用があるので入手。
愛読書だったのに長らく絶版だったから、実は日本語はコピーでしかもってなかったのだ。
しかも管理が悪いからなくしてしまったし。
ずっと以前アメリカにいた頃、集会室で読んでいたら、同じ建物に住んでいるゲイでインテリのピアニストが取り上げて「これ、日本語で書かれた『孤独の迷宮』なの? なんて美しいの!」とオネエ言葉できゃーきゃー言った。
たかが日本語の活字のコピーなのに。
その彼女は日本文学では『マキオカ・シスターズ』が好きで、私も好きだからきゃーきゃーと話した。
名前は「マ」がついたこと以外忘れてしまったけど、顔と声とオネエ口調はすぐに甦る。
他の人たちも顔と声と口調(黒人系の訛りや中国系の訛り)はすごくよく覚えてる。
でも今私は英語はハローとサンキューしか出てこなくて、何をしゃべっていたか言語ではまったく再構成できない。不思議。
それで『孤独の迷宮』だが、当時は本当に目眩がするような孤独感でいっぱいだったので隅々までもジーンと来た記憶があるのだけど、言われて読み返してみるとムッとするようなところもあるなー。
チンガールとチンガーダの考察のところ。つまり犯す行為と犯された女ということだ。
メキシコ人は犯された先住民と犯した支配者の子であり、恨むべきその事実を否定したいと思っている、メスティソではなく無の子、純然たる孤立、よそ者だという。
そこのところにも昔はジーンとした気がするんだけど、まさにそこにムッときた。
「イホ・デ・ラ・チンガーダ」(犯され女の息子)と言われることのネガティブな感情をどう捉えるかだ。
母親が犯されたことの傷を思うと、自分も同じように苦しく傷つくよということか。
どうせ俺は犯され女の息子なのさ、犯すほうじゃないのさ、はっ、ということか。
どうも後者と読めてしまう。
被支配者の男が書いたものなどでよく、自分の民の女が支配者の民に犯されることの屈辱みたいなことが出てくるが、こういうのはフンっと思っている。
要は自分たちの所有物を他人に盗られたから苦痛なのである。
傷を受けた者同士の連帯ではなく、あくまで所有できるか否かなのである。
思考様式、支配者たちと同じじゃん。
パスはもっと洗練されてナイーブで、そういうベタな被支配者意識の先を目指しているけど、やっぱり最初の感情の部分ではどうなのかね。