悲喜こもごも

とりあえずいろいろ解放されて小休止、先週をふり返る。
支配的なある文化というか言語のコードがあって、それを連綿と共有し、上の世代から若い世代へとつなげ育ててゆくブラザーフッドのようなものがあって、そこに入り込めない。沈黙させられる。何とか身の置きどころを築くために擬態をする。
そういう状態にある人は少なからずいると思う。
その状態を鋭敏に感じ取れる男の友人がまさにその現場で声を上げてくれたというのは、これまでの長い長い人生で経験のないできごとで、奇跡ともいうべきことだった。
だがそのリアクションたるや。
友人の誠実で直接的な、端的な問いかけは驚くほどその意図を理解されず、ズレにズレた答えとして引き取られる。
隠喩で語っているのでもなければ、婉曲的にいっているのでもない、私から聞けば「それそのもの」としか受け取れない問いかけにもかかわらず。
問いを受けた側に悪意などあるはずもなく、すぐれている上誠実でもある人々なのを私は知っている。
何のことだかまるで覚えがないのである。
なのに決して誰も「それはどういう意味かわからない」とはいわない。
「それはね」と引き取って、見当違いの言葉ばかりを返す不思議。
わかっていないことに気づいていないのである。
世界はここまで違って見えているのかと無力感に陥るばかりだ。
そういうことをくり返し書き、この会話が行われた直前にもまさにそういうことについて発表したばかりのこちらの言葉など、まるで素通りされていたというわけだから。
別に無視されるのは慣れているし論文さえ通ればいいとも思いつつ、たとえば研究の洗練度というような見地から考えれば他にやりようもあるのにこんなことばかり書いているのは、やはり自分の抱えてきた問題を織り込んで文学とつなげなければ意味がないと思うからだ。
それでも小娘扱いで疎外感・孤独感の強かった昔に比べると、ずいぶん言葉を発する余地はできてやりやすくなった。
蓄積のせいか、それとも単にたまたま今ある肩書きのせいかはわからないけど(肩書きで相手を値踏みしたり、手のひらを返したりする人々は経験上確かにいる)。
歳をとって失うものもあるけれど、悪いことばかりじゃない。
方向はいろいろでも、仕事上、自然と助け合える友人や先輩もできてきた。
そうしなければ仕事の場にも研究の場にも身を置けなかった長い長い擬態を、いつか自分でぶち壊せる日を迎えられるといいと思う。
仮にそうできたとして、あれやこれやが混じり合った今、出発点に戻れるなんて思ってはいない。
「他者とは男(女)のようなものである」など、私には感じるべくもないことである。