バブル文化論

原宏之著『バブル文化論―〈ポスト戦後〉としての一九八〇年代』、読み終わる。
80年代よかったよね、みたいな意見、またもっと下の世代で、知的オタクの萌芽の時代として褒めたたえる意見など聞くたび、私は内心「そうお?」と思ってきた。
でも本書はそういうスタンスで書かれた本ではない。
冒頭近く、ボードリヤールが一般に受けとめられがちなようにポストモダンの信奉者などではなく、ポストモダンに向かう時代に警鐘を鳴らしていたのだというくだりがあり、この辺が結論なのかなーと思っていたのだが、必ずしもそういうことではなかった。
むしろ、現在の視点から80年代論、バブル文化論、ポストモダン論が語られるときに「正史の書き換え」が行われていて、そこから実はこぼれ落ちているものをちゃんと救おう、「知の考古学」をきちんと行おうという誠実な試み。
だから扱われるのも、浅田彰オタク文化とかではなく、竹の子族とか『ふぞろいの林檎たち』とかとんねるずとか、今の視点で見るとかっこ悪くて無視しがちな現象が中心だ。
80年代イコール「バブル」、80年代イコール「ポストモダン」という区分は荒っぽいと前から私も感じていて、86年〜93年がバブル文化、84年〜86年が戦後との断絶期、80年〜83年が流動期という区分のほうがピンとくる。
青山あたりを中心に、ライセンスブランドや新しいレストランをありがたがってたこの時代の人々の感性は、本質的に「貧しい」。
浅田彰のいう「シラケつつノル」という感性ともども、何だか馬鹿みたいだなーと内心思いながら、同時代にあって「周縁」から「中心」へと通う私は、半ばこの状況に巻き込まれていた。
(そこから離れて個人的な価値を確立するほどの知恵もなかったのが悔やまれる)。
本書でとんねるずは、初めてのアドリブを多用し、楽屋オチも見せる芸人、つまり(たぶん)ストリート感覚の芸人であり、ストリートを舞台に素人が観せるという時代の感覚を体現した存在として描かれている。
このていねいな書き込まれ方、たぶん著者はとんねるずが好きだったんだな。
悪いけど私は、とんねるずって一貫して積極的に嫌いなんだ。
今の時代の雰囲気に通じていくような、いやーなイジメ体質を感じてしまうのだ。
それから流動期の現象といえるかもしれないけど、本書にはハマトラへの言及がなかったな。
クレージュとか取り上げるなら、それを包括するハマトラ(隣接する陸サーファー)現象―ウェッジヒールの靴とかファーラーのパンツとかも―に触れてもよかったんじゃないか。
DCブランドより世間を凌駕していた時期もあった。
ピンクハウスで固める女の子とハマトラの紺ブレ+ウェッジの女の子、どちらもおんなじに松田聖子を真似した前髪ブロウの髪型をしているのだ。
いやはや、ハマトラってほんとに画一的で、今思えば大したことないブランドを崇めていて、その後の時代へつながる根本的貧しさを持ってるではないか。
それにしても、いろいろ忘れていたことを思い出して、面白かった。