石内都「mother's」東京都写真美術館

84で亡くなった母親の遺品:身につけていたレースのガードル、スリップ、長襦袢や入れ歯が老いた皮膚:ケロイドで絞り染め模様になった肌、脇の下か膝なのかわからない肉の折りたたみ、細かな縦皺の先の乳首と併置される。
接写された下着類は繊維の目までを露にし、光を通して毛玉やほつれが見分けられる。
笠原美智子さんは「生々しさ」とはほど遠いと評されていたけれど、そこにはやはり、お尻や太もも、性器がみっしり詰まり密着していたことの痕跡がありありと感じられる。そして、不衛生という意味ではなくて、女っぽい自我のぶつかり合いが見えてしまうという意味で、ある種の不潔感がある。
もっとも「生々しくない」とは、生前の母親と確執をもちながら、死後深い喪失感に襲われたという石内都が、制作するにあたってそのルサンチマン(本来の語義でのルサンチマン)を遠ざけようとした結果の抽象化(接写の技法や光の効果)のことを指しているのかもしれない。
自我をめぐる母娘の確執というのは文学などでもよくあるテーマで、強い自我を育ててゆける女性というのは、こういう関係から生まれるケースが多い気がする。私は母親との間にそういう経験がないのでよくわからない。仮に私に娘がいたら、彼女にとってはかぎりなく疎ましくやりきれない母親だっただろう。きっと最高に文学的な母娘の確執が築けただろう。
私の母はあの手の遺品をあまり残さないだろうけれど、私が死んだらああいうものがいろいろ残ってしまいそうだ。それはどうなるのかとふと考えもする。「捨てられないから、捨てるために撮った」という石内都の気持ちを私はよくわかるが、私の近くにそういうフェティシズムの持ち主はいない。でもそんなフェティシズムなど必要ないのだとも思う。死んだら、すべて即座に捨てられたって構わないのだと思う。
石内都」とは、母親の結婚前の名から取った作家名と初めて知り、驚いた。
私も母方の旧姓をたどってペンネームにするアイデアは考えたことがある。結婚によって消えてしまったほうの名を留める(家の権威の復活という意味でなく)というような気分が何となくあったのだ。私の場合、死後養女とわかった母方の祖母の姓が一番来歴不明でいい感じがしたけど、「佐野」っていうのがしっくり来なくてやめた。「石内都」のほうがかっこいい。
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Coyoteに載っていた伊藤比呂美(石内都の被写体にもなっている)の詩を立ち読みしていたら、何か高揚してうるうるし、ふと気づくとページに鼻水を垂らしていた。買わずにページを閉じる。
私は本を読んでて泣くことが多く、よく紙を濡らしてしまう。もっとも紙を濡らしてうねうねにしたのは、文芸誌の中上健次追悼号に載っていた柄谷行人の弔辞のページと、中国の作家・鄭義の小説『古井戸』の終わりのほうのページ。