ゴーヤ収穫

夏バテ。数行書いてはネット(インターネット)をチェックの駄目な一日。
今年最初のゴーヤを収穫する。市販のものと比べると半分ほどだが、去年より大きい。苦味が強かったので、ごま油で炒めて塩をパラパラ、しょうゆをぽっちり垂らして鰹節をまぶして食べた。味が強く美味。ゴーヤの蔓はネット(こっちは園芸用網のネット)いっぱい伸び広がって、伊藤比呂美の『河原荒草』を彷彿させる。ゴーヤの蔓越しに乱立する電柱を垣間見るのも、都会の夏という風情でなかなかいい。
流行りの内田樹先生の本を読む(『子どもは判ってくれない』)。複雑なことは複雑なままにとりあえずの結論を出すという内田先生、たくさんいいこといってるが、気が合わない部分もある。護憲やナショナリズムをめぐる意見はおおむね賛成。「「差別しつつ連帯し、嫌悪しつつ受け容れる」という背理的な身振りのうちに社会の「健全」は集約される」[203]などというような考え方はとても共感できる。
一方、母性愛幻想をめぐる議論などは疑問。母性愛を捨て、ビジネスに没頭する女性は「サクセス幻想」、恋愛に溺れる女性は「恋愛幻想」、自己表現したがる女性は「承認幻想」と、それぞれ別の幻想にとらわれているに過ぎないということだけど、母性愛幻想ってここで挙げられているような別の幻想に単純に置き換えられるような小さなものじゃなく、母であろうとなかろうと女性一般と結びついた幻想として政治的・抑圧的に機能してきた巨大なものだから問題なんではないか。複雑なことを複雑なままに、というわりに短絡的で一刀両断な例。
それから危機論者がどこかで他国から攻撃されるのを期待している、差別を告発する人が差別があるのを待ち望んでいるものだといい、「そういうものなのだ」と断じているけれど、ほんとにつねにそういうものか? 実感として攻撃や差別の脅威をかんじ、心底いやだと思って発言している人々というのは確実にいると思うけど。確かに研究者は、自分は安全で無関係な領域にいながら差別だ危機だといってるケースが多いから、そう結論づけてしまうのかもしれないが。