上野千鶴子『生き延びるための思想 ジェンダー平等の罠』岩波書店、2006年

女性も兵士となることが男女平等と考えるようなフェミニズムを本書ははっきり批判しているが、著者もまたそのように男並みを目指すラディカル・フェミニズムを標榜しているのだろうかと、私はある時期まで考えていた。今は著者の意図はそういうところにないことを理解している。弱い者が弱いままで生き延びることはできないのかということなら、私自身ずっと考えてきたことだし、呆けて垂れ流しの親とどう対峙するのかなど、もうとっくに渦中にある問題だ。
ただ以前の上野千鶴子の議論は、国家や制度から自由である生き方にばかり力点があったような気がして、それがエリートでない大半の女性には手が届かず、それゆえ抑圧的なラディカルさであるように感じられたというわけだ。誤解だったのだろうけど。
ヒロイックに死ぬことなど叶わず、何とか他人と連帯しながら孤独にかっこ悪く生きながらえる者としては、素直に共感できる本であった。
個人的に面白かったのは、ファノンの暴力論を支持する太田昌国らへの著者の批判(「彼らのあいだでは、『非暴力』はそれ自体、支配権力への屈従であるとする合意が分け持たれているように思える。それと明示的には示されないが、『敵』が圧倒的な支配的暴力であるとき、それに対して対抗暴力を行使して何がわるいのか、という問いがここには潜在している」[83])。これはまさに、私のファノンおよびファノン主義者への疑問である。
また、「「民族」か「ジェンダー」か?」の章で論じられていることも示唆に富む。クレオールの問題もしくはポストコロニアルの問題を考えるにあたっても、どちらかを前景化すれば必ずもう片方がないがしろにされてしまいがちな厄介な二者なのである。つねに多元的であることの困難を引き受けなければならない。
社会のなかにあるミソジニーを男のように他者嫌悪としてでなく自己嫌悪として受け入れなければならないこと(田中美津)[96]、また上野千鶴子自身が感じてきたという「男言葉で自分を語らなければならなかった女の怒り」[243]には激しく共感する。こういった根深い葛藤を理解されないまま、男性性がたとえば「オヤジ的な価値を体現しているか否か」といった表面的なことに置き換えて論じられるとき、私は無力感と寂しさをおぼえる。