母系制研究

こんなことばっかり言ったり書いたりしていたら(どんなこと?)、思わぬジャンルの書評を頼まれてずっと苦しんでいる。仕方なくすごい量の本を読んで、日本の古典の勉強をした。
それから柳田国男の『妹の力』、高群逸枝の『母系制の研究』、バッハオーフェンの『母権社会』、網野善彦の『異形の王権』と『中世の非人と遊女』、田中貴子の『外法と愛法の中世』、モースとユベールの『供犠論』に目を通し、後輩に「巫女」について、教授には文化人類学の見地から母系社会と父系社会の関係(誰を通じて「家」が継承されるかの相違があるだけで、そこに「進化」などという関係はない)についてレクチャーしてもらう。いやー、持つべきは教養人の知り合い。
高群は上野千鶴子がよく参照しているのを知っていたが、まさか自分がこの手の大著を手に取るとは思っていなかった。昭和の初め、二十年も部屋に籠もってこんな研究をしていた人がいるとはすごい。当時は「母系制」という言葉さえ大っぴらに口にすることができなかったそうだ。女性を通じて「家」が継承されるってだけの話なのに(女性が家督そのものを担うのは「母権制」)。バッハオーフェンによる古代神話研究は、文化人類学の分野では現在すでに評価の対象になっていないという。高群論文の二年後(昭和15年)に書かれた柳田論文、そして現代の網野歴史学は、それらが形成あるいは加担した近代幻想への批判も知った上で読んだわけだが、あらためてテキストに向かうと具体的な記述が楽しく、読んで損はないと思わされる。日本では、平安末期から室町にかけて家父長制が浸透していったとされているが、網野によれば、調・庸など課役賦課から除外されたことをきっかけに一般女性が公的世界から排除されることとなったとある(やっぱり税金は払っておくものだな)。南北朝時代の文献研究である田中論文もまた別の後輩お勧めだったのだが、反・本質、反・自然のこの人とは気が合って面白かった。日本の古典をやっている人に実はちょっと偏見を持っていたのだけど、ちゃんとした人もいるんだと考えを改めた。
そんな現実の生活を反映してか、古文で詩(和歌?)を書いたら松浦寿輝先生に褒められる夢を見た。そういえば折口の『死者の書』も巫女の話だったなと思い出し、昨日松浦先生の折口論も読み返したのだった。
折口信夫とか柳田国男とか、こんな知識人が読む本を自分が読むことになるとは思わなかった。私のイメージ的にはドゥルーズなんかを読むより全然インテリっぽい感じがするのである。
それから古文のテキストも読めないながら無理やり読んでるけど、子供のとき大好きだった「鉢かづき」はやっぱり楽しい。姫君の頭に鉢が吸いついて取れなくなるなんて、面白すぎるではないか。この話と中将姫の話はひとつだったと思っていたが、どうやら私の頭で混ざってしまったらしく別の話のようだ(たぶん)。中将姫が庭の蓮の茎から糸を取り、七色に染め上げて曼荼羅を織るのだ。