鹿島田真希『六000度の愛』

「女は混沌を見つめている。なにか深刻で抽象的なことを思いついてしまいそうになり急いでそれを中止する。やがて我に返る。彼女は努力する。正気に返ろうとして。その努力は並大抵のものではない。表面に細かい泡ができては割れていく」。
この混沌とは鍋のなかで煮え立つカレーのことである。日常の断片をあまりに哲学的に語る気取りはときにいやらしいが、この冒頭に惹きつけられたのは、台所に立ちながら私もまったく同じことを考えてしまうから。
実体をもてないことの実感を、あくまで抽象的なことばで語ろうとするこの小説が世に出て評価されていることには奇跡を感じる。言葉をもつ者、実体がある者がその充実を語る小説、充実した主体が関わらないまま他人の空虚を語る小説、実体などと無縁のまま「感性」なるもののみで語る小説…世に認められてきたのは、これらの小説だけではなかったか。
いったいこの小説に書かれたことばに、どれだけの人間が実感をもつのだろう。充実・実体に対する空虚、ことばに対する非ことば、秩序に対する無秩序。充実した存在をたえず見せつけられながら、空虚や無秩序の側にある者はどのような論理(非論理)を打ち立てることが可能なのか。
「名を持つ人間を確かに見た。しかしこの経験は自身を名付けることをなし得ない」。男女だけではない。家族間の、すべての自己と他者の関係の可能性、「別の論理」の可能性まで含む、ラスト近くのこの台詞も印象的だ。
団地の警報機の誤作動を引き金に突然長崎に出奔する主婦が主人公のこの作品は、マルグリット・デュラスの『ヒロシマ、モナムール』が下敷きにされているという。似ていたのかどうだったのか、デュラスなど二十年ぐらい読んでいないので忘れてしまった。似ていたかもしれない。それはもしかしたらとても重要なことかもしれない。日本の外には「別の論理」が生き延びられる土壌があったのだとしたら。