息継ぎ

多和田葉子について、大学で授業した。1年生から4年生までいる。やっぱり男子がいると華があるな。女子も知的な感じ。
口頭発表や講演のようなことをすると、声の高さをどのへんに定めたらいいのかわからなくて、たいてい低すぎてしまい、しゃべりながらずっと苦しいことになる。息継ぎの場所もわからず、25メートルブレスなしみたいな感じになる。学生に質問しようと思うが、自分の話をどこで切っていいかわからない。アドリブでの言語能力に自信がないから細かな原稿を作っていくのだが、その結果話題詰め込みすぎで、しゃべりにしゃべりまくることになる。そこへ行くとキャリアの長い先生などは、ゆったり自分のペースでいい感じにしゃべっており、呼吸も苦しくなさそうだ。息をしようとすると、わたしの場合、変な間が空いてしまうのに。
前回の授業にひきつけて、綿矢りさのエクソフォニーについてもしゃべる。多和田葉子綿矢りさは、全部ではないけれど、意外と文章が似ていると思う。マンションが一個の生命体となり、潮の満ち引きをするところとか。部屋が有害な蜜色になるところとか。教室を人間の胃の中にたとえるところとか。
授業と連続してあったせいで、行きがかり上ボルヘスの研究会に出る。フランス人だかスペイン人だかドイツ人だかわからない女性研究者がブエノス・アイレスについてフランス語で発表した。疲労困憊していたのに、人数が少なかったので行きがかり上フランス語で質問した。誰かがスペイン系のクリオージョとクレオールの定義の違いを質問したら、議論が盛りあがって延々つづいてしまって、疲れすぎて途中で死んでしまうかと思った。