西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳』岩波書店、1993年

昨年来のラフカディオ・ハーン関わりがまだ続いている。『耳なし芳一』はずっと昔英語の副読本で読んだきりだが、耳をテーマにした、この上なくエロティックな話なのだと再認識させられた。というか、数年前にも同じことを考えたのを思い出した。耳、ただ聴くこと、姿が見えないこと。ここ最近読んでいる他のものと奇しくも通じ合っているテーマだ。盲目という状態は、考えられているほど絶望するようなものではないのかもしれない。
●「耳なし芳一」が耳の物語であることは否定の余地がない。
●「耳なし芳一」の真髄は、聴覚に全身全霊を集中させた芳一が、耳そのものをひきちぎられる音を聴きとってしまうあのおそろしい場面にこそある。これを何かになぞらえるとすれば、ブニュエルの映画『アンダルシアの犬』の眼球切断シーンをおいてはないだろう。あの有名な場面が、「見てはならぬものを見ること」を観客に強いるのだとすれば、「耳なし芳一」のクライマックスは同じことを聴くものの耳に対して強いるからだ。
●ハーンがこの話を「耳なし芳一」と題したのは、じつに反語的な命名であった。この物語の中で、耳という耳は過敏になることはあっても、役柄を放棄することはない。
●盲目の芳一は、小僧たちの不注意から耳を殺ぎ落とされ、二重苦に陥ったかに見えるが、じつはそうではない。眼とは違って、耳は耳殻を切られたくらいで、ケガレに満ちた聴覚から人を解放するわけではない。