笙野頼子『金毘羅』集英社、2004

人間の身体と共存する野生の金毘羅、というイメージのすごさには圧倒されるが、この迫力、ぎりぎりのところから繰り出される虚構の力を、自分の性別を少しでも利用して生きのびているわたしが手放しで絶賛するような失礼な真似はしたくない。これを読んだ者は高らかに笑うべきなのだろう。作者としてはそうしてほしいだろう。だけど全然笑えない。共感なんていってはいけないけど、こちらにも金毘羅の憎しみが伝播して、喰いしばった歯の間から黒い胆汁が染み出てしまう。金毘羅は他人に期待しないが、言葉にはこだわる。吐かれた言葉の堆積は金毘羅の恨みの糧となる。カウンター的な存在でしかありえないこと、大きいものに消されること、その生きにくさからどうしようもなく滲み出てくる極私的な祈り。それはリベラルとも右翼とも関係ない。身を委ねてしまうオカルトからも一線を引く(だがそうなったとしても責められるだろうか)。生きにくい人間の女の身体が、鰐の金色の目、黒い翼を持った自由な異形へと解放される。
多和田葉子がハンス・ベルマーの妻である芸術家ウニカ・ツゥルンについて書いた次のような文章がある。「ツゥルンはあれほど重要な作品を残していながら、長いこと無名だった。(…)人形をいくらばらばらにしても自分の身体はいつも安全な位置に置き続けることのできたベルマーとは対照的に、ツゥルンの身体はばらばらになってしまう。それはいわゆる芸術家の自殺などというステキなものではなかった。美術作品の素材にされる身体や、テキストの中に描かれる身体や、アナグラムの過程でばらばらにされる文字、それから切り離して、自分自身の身体を安全な場所に隔離しておくことが女性の創造者にはできないことがある。女性の身体と男性の身体は、文学に対する位置関係が違ってしまっている」。このくだりを読んだ時、多和田葉子本人のことを、そして笙野頼子のことを連想せずにいられなかった。彼女たちの創作は、自分の立場を相対化するなどという生易しいものではない。多和田葉子がいうように、まさに「生死に関わる」問題なのである。
作家・笙野頼子を取り巻く男性編集者、男性作家、男性批評家の視線をながめやる時、わたしはその残忍さに胃壁が抉れる思いがする。見世物の動物がする芸を後ずさりしてニヤニヤし、必要以上に褒めてやる興行師たち。たまにチンピラが揚げ足を取る。いずれにしても、建設的に批判できる者はいない。彼らは本来的に女嫌いなので、女が自分と共通のロジックや感性を持つことを極端に憎む。そんなのはニセモノだ、お前が考えたんじゃないだろう、誰それ(男)の真似だろうという。彼らが「女流作家という商品」として求めるのは、基本的に異形、あるいは商品としての「女」だけだ。