9.11

昨日は9月11日だった。もう三年も経ったなんて信じられない。朝日新聞の読書欄で、珍しく金井美恵子が9.11について触れている。「バーでお酒を飲んでいると店に入って来た男性の二人連れの客が、まるで日本シリーズでタイガースが優勝した時のファンのようにはしゃいで、切れぎれに、旅客機、爆発、ビル、という言葉が小耳に入り」「やはり、はしゃぎ気味の運転手から9.11の事件を知ったのでした」「彼らも今はメディアに反応して世界中で頻発するテロに不安と怒りを募らせていることでしょう」。
いつものようにナメているかの書き方だが、言いたいことはわかる気がする。三年前のあの日をワシントンで迎え、その後の一ヶ月を過ごした後帰国した私の目にも、ある種の人々が自分は直接利害を受けないこの「大事件」にはしゃいでいるように見えたからだ。私がアメリカで何ら被害を受けたわけではないが、仲良くしていたお向かいのエジプト人が出社拒否の引きこもりになり、お隣さんの友人や町内のスチュワーデスが死に、毎日ヘリコプターが頭上を舞うようになり、ペンタゴンの建物に魚のぶつ切り型、つまり飛行機の胴体のかたちの巨大な黒い穴が生々しく開いている横に即席のメモリアルができているのを間近で見ると、はしゃぐというよりは陰鬱な気持ちへと引きずられたものだ。
だから当初、私の感情はブッシュ政権への批判の気持ちより地元の普通のアメリカ人の感情に近かったかもしれない。事件を表す言葉も、人々が普通に使うattackという言葉しか持たなかった。それが日本に帰ったとたん、「同時多発テロ」というタームで分類されているのを知り、特にメディアの関係者が自己顕示のチャンスとばかりにこのネタに飛びつくのを見て不愉快な気がした。その後時が経つにつれて、自分に近い考え方をするほかの人々と同じようにアメリカを批判する気持ちが強くなったが、あの時感じたグロテスクさを今日、久しぶりに思い出した。