松浦寿輝(続き)

とはいえ松浦寿輝の小説を読んでいてしっくり来ない部分というのもあって、たとえば〈悪〉への魅惑というテーマがそのひとつである。人の憎しみを理解しない鈍重さに対する苛立ちというのは共感できるのだが、私は〈悪〉というのはわからない。
そして性差にかんする先入観。これはこの作家の世代の、またはもっと若い60年代生まれぐらいまでのほとんどの男が持つそれと同じく、接するたびに絶望的な気分になる。主人公の中年男はしばしば男女の違いについてを口にする。曰く、男は子供のときも、大人になっても何かを夢見つづけているものだ。男は迷妄する馬鹿である、そのように馬鹿ではなく、迷わずしゃっきり立って手助けしてくれる(あるいは賢しく裏切る)のが女である…。主人公はもちろん作者ではない。だが私の直感では、これは作者の実感である。
こうしたとらえ方を普遍と見る風潮が大きな圧力としてはたらき、女の迷妄、女の論理の可能性を封じ込めてきた。だが一方で、ジェンダーフリーを育つ過程で自然に体現しえた世代もすでに表現者として台頭してきている。彼らの屈託なさに罪はないが、そこで上記の問題が取りざたされることはなく、彼らの感性はそれを解決済みの事柄の一部としか見なさない。表舞台では新旧の感性の二項対立としか見えないが、その狭間に封じ込められたものこそ私の問題だ。年上年下にかかわらず、思いがけない人から同世代扱いされるたび「世代」ということを考えずにはいられないが、こうした性差の先入観と解放のあいだに巻き込まれている人々が私にとっての同世代人だと思える。