持続と無根拠

…って、これも大きいテーマなんだよなー。
「これでいいのだ」の名言が一日中耳に入るこの数日であれば、なおのこと考える。

博論友達と真夏らしく涼しげな水辺でおしゃべりしてきた。
博論マラソンしてるというから、博論を書くのは長く苦しくつらいという比喩表現かと思い、それなら私だってそうだと思ったが、執筆と並行してほんとに長距離走っているらしい。
なぜか周りで長距離ランナーが増えている。
そういう人と親しくなる傾向にあるのか?

たわいない話題ばかりながら、相手の持続力のある感じ、いうことに根拠があって知性でコントロールされてる感じにほっとして、対人関係でここのところため込んでいた毒気が抜けてゆく。
私が何より苦手で、馬鹿にしているつもりなのにどんどん自分のほうがやられてしまうのが「気まぐれポジティブ・シンキング」(命名ノラー)だ。
根拠もなく思いつきの気まぐれで動いているのに、「これまでの自分はすべて肯定してもいい」などと嘯く無反省そのものの態度。
私は自己批判を美徳と考えてしまう(そのことすら自己批判してしまう)人間なせいか、無反省というのがほんとに駄目なのだ。
自分は理知に偏りすぎているかもしれないなどと自戒する謙虚な知識人は(自分は女性的な感性にかんして鈍いのかもしれないなどという負い目もあって)こういう輩を甘やかすかもしれないが、

俺は許さんぞ!

と思ってはいても、結局そんな相手に話は通じないから、歯切れの悪いこっちが負けるだけである。
確信しているが、知性のない人間に感性なんてない。
ちゃらちゃらしてゲンキンな気まぐれの前向きなんてミステリアスでも魅力的でもなんでもないよ。
もっと反省しろ!

この業界(どの業界?)、「衝突の美学」とか「無根拠な接続」とかのが全然かっこいい!軽やか!頭いい!のは自明のことで、持続とか根拠とかいうのは気がひけるが、もちろんここでいう「無根拠」と「気まぐれポジティブ・シンキング」はまったく関係がない。
信頼おける人々は、誰だってすごい強度で持続している。
「これでいいのだ」の肯定の言葉だって、その背後に現れるものと思うのだ。