汝の文体を耕せ

日本語の文体をめぐり激論を交わす。
友達の尊敬する思想家先生の文章にケチをつけたうえ、いくつも例を挙げて添削までしてしまったのだ(ひどい)。
議論は悪文とは何かから、リズムの不安定、漢文調の文体と性差の問題まで、いろいろに発展。
うるさくってゴメンネ、みんな。

何とかたらざるを得ないとか、然るにどうであろうとか、こういう漢文由来の表現が私にはとても素敵とは思えない。
自分では使わないし、それは近代以降の日本でどういう人々により使われ発展してきた文体か考えたうえでの意識的な選択。
…なんていってみたけど、そんなのもコジツケで、ジジイっぽくも女流作家っぽくもなく、もっとニュートラルな文体の方が締まってかっこいいじゃんというのが真意かも。
というか、それとこれとは同じことかも。

そんな中、私が表現の冗長さを指摘した文章について、ある人にいわれたことにはっとする。
細部まで作りこまれていない、無駄に見える部分というのが実は機械の遊びのように機能して、新奇なものや異質なもの、さまざまな概念をかえって自由に盛り込むことが可能になるのだ、と。
感性を極小にした融通無碍の性質ゆえ、余裕をもってあらゆる事象に言及でき、細部にこだわる代わりに、全体的な視野の確実さを優先させる文体といえるのだという。
そういうこと、これまで考えたことがなかった。

私自身は、長々としたものであれ、簡潔なものであれ、とにかく言葉のあらゆる部分に意識が及んでいる文章を評価してきた。
わざとリズムや表現を崩しているのはいいけれど、意識しないで悪いリズムを放置しているのはだめ。
表現の反復に気づけていないのもだめ。
すべての細部が意識された文章こそテンションのあるいい文章と思ってきたけど、そうでないことの効用というのもあるのだと知る。
うーん、奥深い。

しかし文章のよしあしの判断というのは、時代が共有するある言語の使い方の規範みたいなものと個人のセンスがブレンドされてなされるものなだけに、どうしたって完全に中立というわけにはいかないものだ。
俺様の判断にぜったいの自信をもって譲らない輩もいるから困る(俺様とはこの俺様のこと)。

今日の箴言

他人にいちゃもんつけてる暇に、汝の文体を耕せ (norah Voltaire)