ネオリベ批判ってなに?

norah-m2007-09-23

巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラのお土産をいただく。
ケルトの影響色濃い、馬上の人らしき図柄が面白いペンダント・トップ。
他の人は渦巻き模様や繁茂する樹木らしき柄のをもらっていた。
私も行ってみたいな、ケルト文化の影響が残るスペインの北西部やフランスの北部。
古くて不思議で荒々しくて、ヨーロッパなのにヨーロッパじゃないイメージがある。
ガリシア地方のこの巡礼地は近頃若者たちに人気らしいが、私はプルーストブニュエルの『銀河』などを通して何となく馴染み深い。
ウィキペディアにとんでもなく間違った記述が書かれているね)

回し読みしているネオリベ批判本、回さなきゃいけないからささっと読む。以下感想。
小泉政権以来の規制緩和と雇用格差で、低賃金と保証なき身分という悪循環に陥ってしまい、住む場所さえままならない人々が増えていることは深刻な問題だ。
この問題と文系大学院出身者の不遇とは直接結びつけていいものだろうか?
私の知るかぎりここで対象とされるような大学院出身者(フリーのアーティスト志望者なども時に含めていいだろう)は社会的にはトップクラスの学力を持ち、意志さえあれば十分に正規雇用の職に就けた人々ではないか。
経済的自立よりは「やりたいこと」を優先させた結果、大学院やフリーの道に進んだのではないか。
いわば買って出た貧乏で、弱者とはいえないのではないか。
文学や芸術で喰っていくのは針の穴を通るほどにむずかしいことなど100年前から常識ではないのか。
私は大学院に入ってこの方、文学などやっていて就職はありませんよと100回は聞いたが、聞いたことがないのか。
そういう常識があれば、それなりの覚悟をするなり手立てを講じるなりしていたはずではないか。
非常勤講師の待遇改善にかんしては、不安定雇用の問題の延長として考えるべきことだと思う。この部分は構造改革の問題と無関係ではない。
でも旧育英会奨学金をチャラにしろなどという乱暴な議論はまったく理解できない。
仮にできたとして、あとあと返済が大変なことを見越して一時的に社会で働くなどの方法を取った人に対してはどうなるのか。不平等ではないか。
だいたい返還することを承諾して借りたのだから、契約不履行ではないか。
もしも諸外国では奨学金は返さなくてよいなどというすばらしい制度があり、将来的にそこを目指すというなら、自分は粛々と返すべき借金を返した上で、次世代のために活動を立ち上げるぐらいが筋ではないのか。
実際、滞納による赤字が数千億にのぼるというのに、それを踏み倒して国民の税金を充てろというのか。
軍事費には充てずにもっと福祉になどと、普段は税金の使い道には厳しい理念を述べるのに、大変な家計の中から納められている税金を自分たちのためには平気で使えというのか。
一方的な要求だけしてその背景も考えない、世間があまりに見えていないというのはいい歳をして恥ずかしいし、何よりも厚かましい。
私だったら、たとえば高校の義務教育化にその分を使ってほしいと思うよ。今の格差問題ともっと直結してると思うから。
研究にも資金投入すべきと思うが、全員を養う必要などない。一部だけでいいと思う。
そうすると何をもって優秀とするかなど決められないなどと根源的な疑問を呈されることがあるけれど、そうだとしても現実に配分するには便宜的な基準ができるのはしょうがない。
社会人をやりながら30代まで奨学金を返し続けた友達にこういう話をしたら激怒してたよ。
文系の大学院で全員が食べていけるのなら自分だって進学したと何人もの社会人に聞いたよ。
社会人をやるか大学院に進むかっていうのを単純に好みの問題だと思ってる人がいるのがそもそも間違いなんだよ。
ネオリベ」的風潮じたいは重大だとしても、議論がどうもズレている気がする。
インテリだけが構成員の世界とそこでの問題しか想像されていないのではないか。

それからこれは私が生理的にというか、感覚的にそういう傾向なのだろうが、市場経済そのものが悪とは思えない。
いやむしろ、こういう議論でしばしばバックにあるなーと思う60年代的な従属論が現実的に機能し効力を発するなどと思えない。
競争がまったくないことや過度な保護が招く社会の停滞と腐敗のほうが想像されてしまうのである。
このあたりの感覚、やはり左派人文系アカデミズムの主流とはずれていて、会社員上がりらしいのだろうと思う。
経済学をわからずに大それたことをいえば、典拠とされているケインジアンの文献の数々はそもそも従属論的な競争の排除でなく、市場経済を認めながらも弱肉強食が極端に進まないためのコントロールを持ち込むことを志向しているのではないのか?