樹をみつめて

寝ている間に、中井久夫の『樹をみつめて』を何気なく読んだら読み終わってしまった。
戦争をエントロピーの比喩で語ったところになるほどと思う。
戦争が大幅にエントロピーの増大を許すのに対して、平和は絶えずエネルギーを費やして負のエントロピーを注入して秩序を立て直しつづけなければならない、だからそっちのほうが断然大変という話。
さらにエントロピーとネゲントロピーは、部屋を散らかすのと片づけるのとの違いとされる。
戦争では散らかす「過程」が優勢である。戦争は男性の中の散らかす「子ども性」が水を得た魚のようになる。
そこで自分のことを思えば、エントロピーを増大させたいのに何だかすぐさま、というか根本的にネゲントロピーを要請されている、それでいて周りにはエントロピーいっぱいの人たちもいる。エントロピーのくせに「平和」みたいなことを言っている。その辺に苛立ちがあるのかもと思った。
弱い関係の大事さというところもいい。
親子、とか、恋人、とか強い関係に頼りがちな世の中だが、それは同時に強い葛藤も生む。
それとネットでのヴァーチャルな関係などとの間が抜け落ちてるというのが著者の考え。
整然としたネットワークに少し思いつき的な線を加えると、とたんにコミュニケーションの効率が増大する。
そういう弱い関係の重要性についてはよく思う。
関係とかコミュニケーションとか、ここではあくまで具体的、断続的ではあってもどこかで続いているものを指しているのであって、誰かの理念の内側で完結してるもののことじゃないのだが。
夢の話も面白かった。
夢が体にいいのは、夢を見る時に体の筋肉が緩むからである。緩まなければ夢を実行してしまう。って何だかよくわからないがそうなのか…。
空を飛ぶ夢も、体が緩むことが夢に出てきただけだそうで、同じ夢を金縛りと捉える人も、深い孔に落ち込む夢になる人もいて、それはその人の気質や置かれている状況によるのだとか。
で、私は空を飛ぶ夢なんか見たことがなく、金縛りや孔に落ち込むのはしょっちゅうだ。
「気質」とかいわれると、それはやっぱり暗いとか物事に捉われやすいとかそういうことだろうか。
冒頭の樹についてのエッセイもしんとする感じがいいけれど、私は植物のなかでは樹に弱いと実感。
祖父と母親から樹について教わってきたという著者がうらやましい。
阪神大震災の病院火災で半分焼けたオリーブの樹を庭で再生させる話は何だかいい。

同時にマクシマンの「水」の章と『カネと暴力の系譜学』の途中までも読む。
自分の周りの人たちに「親分」とか「のび太」とか「アニキ」とか勝手な呼び名をつけながら、こっちは全然知らないのに飲み会などのどうでもいい話をまどろっこしくしてくれる(本当は優秀な)友人がいて、いつも楽しい気持ちにさせてもらいながらも、オバチャン、もう少し理路整然と話してよ、とよく思うのだが、その「親分」だか「のび太」だかがこの作者と聞いてびっくりだった。