シンシン

小日本という差別用語があるそうだが、わたしはカリブ旅行中、通りを歩けば「シン」「チャイナ」「タイワン」「シンシン」などと声をかけられた。物珍しさからで大した悪意がないのはわかっているが、知りもしない他人にいきなり国名(しかも間違った)で呼ばれるのはうれしくはない。たいてい無視しているが機嫌が悪いと気に障る。コピー屋のおばさんがコピーを上げる期日を二度までも破って押し問答している最中、別の客に傍でしつこく言われ続けたときはついにブチ切れ、「差別的なんだよ」と怒鳴りつけた。その客がくり返した「シンシン」という言葉はさしずめ「中国ちゃん」という感じか。いわれた客は「差別じゃなくて親しみのつもりなのに…」と言い訳していたけれど、本当にその通りだったのかも。言葉に小とかプティとか縮小辞(tte)をつけるときの心情には親しみと侮蔑の二通りがあるようだ。というか、多くの場合はその両者にまたがっている気がする。
それにしても、コピー屋での話の通じなさはすごかった。木曜にできるといわれたコピーを取りに行くと一部しか終わっていない。金曜に上げるというのでしぶしぶ引き下がり当日行くと、機械の調子が悪いから今日はだめという。でも現に動いている機械はある。怒って、先客なんだから優先して今すぐやれというと、あんたのは量が多いから5時に店が閉められなくなるという。のらくらしたおばさんの方もキレたのはわたしが「仕事上の責任なんだから残業は当たり前だろう」といったとき。機械のせいなのにわたしを責めてそんなひどいことを要求するなんて、と人でなし呼ばわりされ、「シンシン」の件を逆恨みした客も「客観的にいってあんたが正しい」とおばさんに加勢し、図書館の本は館内でコピーすればいい(それが禁止されているからここに来たと何度もいってある)、あんたが日曜にマルチニックを発つのが悪いと関係ないことを責められ、ついには電気まで消されて追い出された。
コピー屋のおばさんにかぎらず、この土地の人たちは本当でないこと、本当にできないことを悪意なく平気でいう。嘘になっても後始末なんてしない。近隣の地域同様、嘘受容の文化である。後から人に何と思われようと、その場を逃れて自分だけは何とか生き延びる奴隷の知恵から発したのかもしれない。少なくともクレオールのコントなどにはその片鱗が見られる。わたしに「責任」などといわれても「はあ?」って感じだったが、彼らのフランス語辞書にresponsabilitéなんて言葉は初めからないのだ。その反面、その場その場での鷹揚さ、気風のよさみたいなものにも溢れていて、気持ちのいい思いをすることも多い。これらは同じ人間の両面で、引き離すことはできない。
こういう現実をも含んでいるクレオール世界の即興、いい逃げ、ホラ話文化に魅惑される人は少なくない。たしかに文学的立場としてこういうスタイルを選ぶのはかっこいいし、わたしの場合、創作と研究の世界をつなげやすいが、簡単に与するわけにもいかない。