右目

水曜日にコンタクトを作り変えて、左右の視力バランスを調整したはずなのに、もう右目だけかすんでいる。右目に合わせて二段階も弱くした左はなぜかくっきりよく見える。もしかして近視とか遠視とかいう問題ではないのか?知人に脳のどこかの線が切れて片目失明してしまった人がいるが、わたしも何か切れてしまったのだろうか。
西成彦の『耳の悦楽――ラフカディオ・ハーンと女たち』を再読。もともとブログにアップするつもりで感想を書いていたら、長くなりすぎ書評になった。前と気分が変わって耳や聴くことについてもっといいたくなったので、また全部書き直す。
受け身であること、男のマゾヒズムと女のマゾヒズムの交錯、代母と養子などが、この書き手のテーマのようだ。クレオール作家には珍しく女性に目配りがあるので注目しているけれど、そのあり方は微妙で、ともすると母性礼賛と取れなくもない。
「「性関係の可能性に無限に開かれた性」と「夫であれ子であれ姉妹であれ主人であれ同性の友人であれを子どものようにいたわり、養育する性」の交わる地点にこそ「女性」を見出すこと。歴史小説の体裁をとっていながら、マリーズ・コンデの小説が現代小説として読めるのは、彼女がジェンダーセクシュアリティをめぐるきわめて現代的な問いにみずから答えようとしているからである」
西氏のマリーズ・コンデ論からの引用だが、わたしは(身体的な機能としてはそうにはちがいないけれども)女性が先天的に「養育する性」であることを自明のものとした上でコンデが作品を書き続けているとは思えない。「養育」というより、出会う相手と関わり気にかけ連帯しようとするというのなら、コンデの人物たちはそうであるかもしれないが。そしてその関係は男女であるよりは女性同士であることのほうが多い。