またデリダ

ジャック・デリダ『コーラ――プラトンの場』守中高明訳、未来社、2004年
名づけえぬものについて考えたいとクショ先生に相談したら、読めといわれたのがこれ。正直、ギリシア語、ギリシア哲学に通じていない身には難解すぎるが、何か自分に関係があることだというのはかろうじてわかる。一般には善のイデアで理解されているプラトンの『ティマイオス』に書き込まれた語「コーラ」(場)とは、ロゴスとミュトス、イデアと模倣、モデルと生成といった対立措定ではとらえられない、非固有性を保持した第三のジャンル、ということはわかった。そして、コーラが与えつつある「場」と「名」との関係、つまり、コーラとは名づけることの可能性に対してなんらかの不可能な関係を持っているということが問題なのだということはわかった。手際よくまとめられないので、一番好きなところを書く。
「コーラは、父とはカップルを成さない。換言するなら、模範的なモデルとはカップルを成さないのである。第三のジャンル(48e)であるコーラは、対立措定のカップルには属さない。たとえば、叡智的模範が感性的生成とともに形づくるような、そしてむしろ父/息子というカップルに似たそれには属さないのだ。「母」はのけ者となるだろう。そして、これは一つの形象=文彩、一つの図式、したがってコーラが受け取るあれらの限定のうちの一つにすぎないのだから。コーラは、一人の乳母でないのと同様に一人の母ではなく、また一人の女でもない。このtriton genos[第三のジャンル]は、一つのgenos[類]ではない。それは、何よりもまず、それが独自の個物であるからだ。コーラは「女たちの種族」(genos gynaikon)には属さない。コーラは、一つの場所を脇にのけてしるしづける――それは、「みずからのうちに」、みずからの傍らにあるいはみずからに加えて、みずからとカップルを成すように見えるものすべてに対して、ある非対称的な関係を保持する間隔化[espacement]をしるしづけるのである。カップル外のカップルにおいて、産み出すことなく場を与えるこの奇妙な母を、われわれはもはや一つの起源と見なすことはできない。彼女=それは、あらゆる人間-神学的図式から、あらゆる歴史=物語から、あらゆる啓示から、あらゆる真実から逃れ去る。前-起源的であり、あらゆる世代=生殖の前かつ外にあって、それはもはや一つの過去や過ぎ去った一つの現在という意味すら持たない。この前とは、いかなる時間的先行性をも意味していない。この独立の関係、非-関係は、そこに受け取られるべくそこに住まうものの点からすれば、空隙の関係あるいは間隔化の関係にはるかに似ているのだ。」