多和田葉子

多和田葉子『球形時間』(新潮社、2002)、『エクソフォニー――母語の外へ出る旅』(岩波書店、2003)
『球形時間』を読むのはもう四度目。『エクソフォニー』も、三度目ぐらい。『球形時間』の面白いところを伝えたいと思うが、英語だとノイローゼになりそうなほど書きよどんでしまう。苦しい。日本語だと、書きながら続きを考えるのが私のやり方だけれど、外国語だと一つの文の体裁を作るのに頭がいっぱいで、次の文につながらない。レトリックも使えないから、センスも知性もユーモアもゼロの馬鹿っぽい文章になる。野蛮人について書いているけれども、デリダによれば、フランス語の「言いよどむ」balbutierの語源はギリシア語の「バルバロス」(でたらめにしゃべる)で、そこからbarbarian という語が生まれたそうで、まさに私も言いよどんでいる野蛮人なのだなあと思った。
今回読んでみて、一番最初にも感じたことかもしれないけれど、廊下を駆け抜けて、制服のスカートがふわっと風をはらむところとか、最後にサヤが校舎の屋上で煙草をぱっぱと吐き出しながら、「すべては美術の時間なのよ」と嘯くところとか、ヌーヴェル・ヴァーグの青春映画みたいに残酷で軽やかな作りになっていると気づいた。
そういえば昨日は来週の授業で使おうと思っているゴダールの『勝手にしやがれ』を実に十数年ぶりに観て新鮮な気持ちになったけれど、続きのコマーシャルから89年の春頃に録画したものとわかり、その頃は生涯で最も保守的だった時期だから、きっとゴダールも今とは全然違うように見えただろうなと思う。

併せて、ツヴェタン・トドロフ『他者の記号学』(法政大学出版局、1986)、ガヤトリ・スピヴァクポストコロニアル理性批判』(月曜社、2003)、イザベラ・バード『日本奥地紀行』(平凡社ライブラリー、2003)などを参考に読み返した。