ベトちゃん的なもの、あるいはドクちゃんのカニバリズム

どうも前日のトーンを裏切りたい気持ちが働く。
ナイーブなことを書いたら俗なことを、市民の怒りを書いたら文学的に。
研究ノートにしようと思って始めたのに、わざと書かない気持ちが出てくるのはなぜ?
私とはこのような者である、と輪郭を際立たせてやることが、愛読者を定着さすコツであると思うのだが。
いや、ブログの読者うんぬんより、作家になるとは輪郭を際立たせることとの実感がある。
そういうこと、ものすごく照れてしまうのである。
輪郭づけを逃れたい。弱さですね。

だから今日は時事ネタにしたくなかったけれど、ベトちゃんが亡くなる。26歳。
80年代半ばにこの双生児が来日してから、ずっとベトちゃんが気になって仕方ない。
胎児のとき、米軍が撒いた枯葉剤の影響を受け、骨盤や肛門などを共有する「シャム双生児」として生まれた二人。
共倒れを避け、片方を生かすという選択により分離され、以来ベトちゃんは重要な臓器をもたず、重い脳障害を煩ったまま生きながらえることになる。
分離手術の後、義足をつけ、成長し、結婚もしてボランティアに勤しむドクちゃんの人生は、明るく勇気ある物語としてわかりやすい。
しかし私の中には、つながった兄が隣にいながら元気なほうの弟が「ベトなんか死んじゃえばいい」と言い放ったのを知ったことのショックがいまだ焼きついているのである。
そんなの甘やかされた未熟な子供のいうことで、今さら水に流すべきとはわかっているが、その後の二人の行く末を知ればやはりどうにもやり切れなくなる。
(あの頃の、二人に対する日本人のちやほやぶりは相当なものだった。「愛くるしい顔をしたシャム双生児」の人気という現象は、これはこれで考察の対象になるような気がする)

この双子の中心とはドクちゃんであり、ベトちゃんはその滋養となりドクちゃんの中に消えていった。
ドクちゃんを責めるつもりはない。
ベトちゃん的なものを気にしつづけること、ベトちゃん的なものに想像力を働かせることをやめたくないと思う。